毎日を暇に過ごすよりも、仕事でもしていた方が充実した暮らしを送れるということだ。
実際、ここ最近は平日は基本的に仕事が入っているから、朝から夕方までは会社に行っている
という感じになっている。で、寝る時間を削ることによって、前よりも長い時間起きていられることになり、
そうなると、当然だが、自分の自由な時間というのも長く伸びる。そして、神経が研ぎ澄まされてくる
時間まで起きていられるようになって、それをきっかけにして、書けること、書けること。ついでに言えば、
会社はパソコンを使う仕事だから、昼休みの空いた時間にも適当な物を書くことが出来るため、
非常に充実した時間を過ごせている。
小説っぽい物でも、こっちに載せる予定ではあるのだが、いかんせん、ブログという形式だと、
やたら、めったらと重たいってことと、それに、更新が面倒というのも、ある。
だから、こっちのブログにリンクを張るとしても、他の場所にホームページでも作って、
そこに載せていこうとか、考えている所だ。それと、やっぱり更新するにしても、
先にメモか何かで書いたものをコピーペーストでもした方が楽だということにも、最近気が付いた。
書くということ自体が、面倒にならないように、スムーズに書ける環境を作って行うことが、
やっぱり大事なことなのだなあ、と改めて再認識したところだ。
やりたいことがあるのに、それが何故か出来ないって思ったら、環境を変えてみよう、
掃除をしろってことじゃない。実際、掃除など殆どやっていない。
環境を変えるっていうのは、普段は人目であるとか、こんな格好だととかで、色々とやる方法から
入るものだが、それを全て捨て去って、やりやすいようにすれば、何でもやりたいことは
自然とやりやすくなるってものだ。
まあ、そんなところ。
- 2008/07/14(月) 21:17:19|
- 考察
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世界は、自分を受け入れてくれない。
自分自身もまた、世界を受け入れられない。
世界とは、背景に過ぎない。
自身もまた、その世界に映り込む背景に過ぎない。
起きている間が現実で、寝ている間が非現実か。
他者の死を知覚することは出来ても、自身の死を知覚することは出来ない。
気が付いた時には、既に生まれている。
永遠に続く世界に放り込まれて、永遠に生き続けることを科せられた者達。
それは、どんな権利であり、義務であり、罰なのか。
死は終わりでもなければ、解放でもない。
ただ単に、輪のゴールに着いて、すぐにリスタートになるだけの現象だ。
役割を決められ、何度も何度も、同じ事を延々と繰り返させられるだけの生活。
そこに生きる希望を見出すことも、死んでしまおうとすることも、何もかもが無意味だ。
その無意味だと感じる中でも、希望を見出すか、絶望に浸ることが出来る者もいる。
それは何故だろうか。
それは、結局のところ、人が一人ではないことから、派生してくる問題なのだろう。
一般的に良いとされる方向の出来事でも、悪いと決められている方向の出来事でも、
どちらにしても、何もない状態からすれば、問題だ。
問題を起こす生き方を選ぶか、問題を一切起こさずに生きるか、それは個人の采配に
委ねられている。
- 2008/06/23(月) 09:33:50|
- 単作
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小説にしても、マンガにしても、音楽にしても、絵画にしても何の分野においても、
ネタって重要だったりするよなあ。
でも、そのネタって、人によって出し方があったりするんだろうなあ。
まあ、小説を書くときは、役になりきってというわけでもないが、
例えば、人物Aが話を始めるのだったら、まずは、そのAになりきってみることから、
始めている。こういう言葉を喋るときは、この人物だったら、こういう表情になって、こんな調子で
喋るのだろう、とか。それでそこを書き終わったら、次は、それを聞いている人を順々に書いていく
ために、その人一人一人になってみる。それで、何か返答をするのか、それとも黙って頷くのか、
むしろ、聞かずにそっぽを向いて、人物Aから突っ込まれるのか、そういうことをその場で、演じながら、
書くという感じになっている。したがって、ネタが思い付かない時は、本当に先に進まない。
正確には、小説の中にいる人物たちが、動いてくれないと、こちらとしては手の出しようが
なくなってしまうというのが、困ったことに現状である。つまり、話の持っていきかたで、
人物達が、こんな世界観じゃ動きたくないって感じになってしまうと、書いた部分を
動けるところまで消してやらないと、話が進まなくなることもあるから、色々と厄介だったりする。
っていうような感じで、ネタを出しているわけだが、みんなそんなもんなんだろうか。
つくづくイラストであるとか、マンガを描くことが出来ればと思うところではある。
頭に浮かんだ動画を絵にする力がないから、字で表現するしかないというのが、
何とも度し難い。よく絵を上達させるには、描くしかないと言う。それはもっともなご意見だと思う。
じゃあ、文章で表現するのが苦手な人も、当然だが、書けば上達すると言われるだろう。
でも、こう物書きをしていて思うこともあって、文章を書けない人というのは、いわゆるこちらの立場から
すれば、マンガを描けない人という見方も出来るわけで。そうすると、結局の所、どうやれば上達
出来るのか、というと、なかなか難しいところがあると思う。
結局のところ、こういう分野っていうのは、地道にコツコツというのもあるが、ある日突然、
一気に上達するってこともあるわけだ。何故か知らないが、突然開花するかのように。
つまるところ、そういうものは感性でやっているからだろう。
そうすると、絵を描ける人がお勧めする上達方法では、絵を描けない人全てに当てはまるとは
言えないのではないか。絵を描ける人が勧める上達方法というのは、大概が、元々絵の感性が
多少なりともあって、きっかけがあれば描けるようになるという感じの人に向いていると思う。
例えば、好きな人の作品をたくさん見て、その人のキャラを模写するところから始める、とか、
デッサン用の人形でも使って、様々なポーズを描いてみるとか、そういうことだろう。
それを書き物の世界に置き換えると、好きな作家の作品を読みあさる。それは、まあいいだろう。
でも、好きな作家の作品を書き写すっていうのは、あまりやらないのではないだろうか。
ただ、デッサン人形を用いて、様々なポーズを描くという部分に関しては、書き物の視点から
見ると、様々なシーンのワンカットを切り取って、文章を作ってみるというような作業に通じていると
思われるから、良い方法かもしれない。でも、それだけだと、個性的なキャラを描くという所には、
達することは出来ない。無数の断片があっても、それが一つの作品となるためには、主軸となる
キャラがいて、初めて生きてくるものだ。キャラだけでも、生きてくることはないが。
そうすると、書き物が得意な人間は、書き物をするような視点で絵を描けばいいのではないか、と
最近思ってきたところだ。様々なシーンのカットは、デッサン人形でのポーズ。好きな小説を読む
ことは、好きな漫画を読むことと同じようなこと。では、文章を書けている根本的な所は何だろうか。
文章を書くときに心がけていることは、とりあえず書くことだ。最初から完璧なものを求めていない。
骨組みでも良い。何かしら書いておけば、そこに肉を付けていって、形にしていけば、時間はかかるが、
それなりに見られる物になる。つまり、キャラのイラストなんかでも、そういうことか・・・?
先に骨組み、つまりは、それがどんなポーズなのかを棒人間でも、ブロック体をつなぎ合わせた
ものでもいいから書いてみて、それから、各パーツごとに、少しずつ人っぽくしていくようにして、
ダメだと思う部分、少し余計だと思う部分を少しずつ調整していって、完成させるということだろうか。
ただ、それが慣れてくると、最初からブロック体なんかを作らなくても、本番の線を引っ張ることが
出来るようになるとか、そういうことだろう。
書き物なんかで言う所の、推敲も下書きも一切無しで、最初から本番の感じで書いていっても、
少し修正するだけで、ほとんど完成に近い感じに仕上げられるみたいなもんだろう。
つまり、慣れないうちから、そういう領域で書こうとすると、どうしても書けないのだろう。
後、言えることだが、目的がないと、書けないものだ。その目的っていうのは、小説でもマンガでも
いいが、書く目的ということではない。
例えば、そうだなあ。とある国の興亡記でも書くとしよう。その時、登場人物も決まっていなければ、
どんな国なのか、何故、そういうことになったのか、そこの文明はいつ頃なのか、そういった部分、
何か先に行こうとするような目的が見えてこないと、書くことは出来ない。つまり、キャラの立ち絵を
描くにしても、そのキャラがどんな表情で何を見ようとしているのか、どんな目線で、どんな場所で、
どんな格好なのか、そういうことがわからないと、決めておかないと、何も描くことなど出来ない。
目的のない所では、棒人間にしかならない。書き物でも、何が書きたいのかわからなければ、
先に進むというか、何も書くことも出来ない。
自分自身で参考にするためにも、何となく書いてみた。というか、とりあえず何も思い付かず、
ちょっと先に進むのが遅くなってきてしまったというのが、今回、こんなことを書いている理由だろう。
ぶっちゃけ、書けるようになるのも突然で、書けなくなるのも突然だから、困ったものだ。
その理由も、何なのか把握も出来ないから、余計に質が悪い。自分自身がスランプに陥った
原因を正しく理解して、それを速やかに解決出来る人がいるのなら、それは実に素晴らしいことだ。
息抜きをすることか、寝ることか、それとも、書けなくても、机なりパソコンに向かい続けることか、
旅に出ることか、遠くを眺めることか、誰かと話すことか。とにかく、わからないものだ。
処方箋が、もしも存在するのなら、今のところ把握していることは一つしかない。
時が解決してくれる。何をして、じたばたともがいても、書けない時間は書けない。
何のきっかけかわからないが、突然書けるようになる。つまり、解決方法は時間。
それしか見つかっていない。
それとも、どうでも良いことを書こうかなあ・・・
ま、色々と考え中。
- 2008/04/25(金) 23:45:25|
- 今、この場で書きたいこと。
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やっぱり、何かと色々と、苦労があるようで、基本的には、愚痴愚痴愚痴・・・。
ま、それは仕方ない。いきなり、民間にされちゃって、いきなり、訳の分からない状態にされて、
ノルマだなんだ、営業だ、とかあれこれ言われて、そういうことを好まないから、そこを選んだにも
かかわらず、時代の流れで、そういうことになってしまって、やっぱり不平不満は募るばかり。
でも、結局のところ、自分自身もそうだけど、そうなることを予測出来なかったことと、
そうなった時のために、事前に資格を取るなり、何らかの努力をしてこなかったことが、
現在を作っているわけだ。だから、何というか、何かになりたいのなら、努力をするべきだ、と
いうのもわかっているわけで。
しかし、それで動けるかっていうと、動かないのもまた事実。
最近思うことだが、文句を言うだけで世の中は変わらない。取り巻く環境も変わらない。
お金が入ってくるわけでもない。生活が改善されるわけでもない。
だったら、自分から進んで、そういうマイナス要因となるようなものを口にしたって、仕方ない。
文句を言う暇があったら、口をつぐんで考えろ。
その方がよっぽど建設的だ。
だから、基本的に、何も喋ることは、ない。
不言実行というタイプともいえるだろうか。
何も言わず、実行するっていうのは、一見すると格好良いかもしれないが、
実際の所は、単に、話すのもだるいし、宣言してしまうと、やらないと色々と気分が悪くなるし、
何か枷があるっていうのは、好きじゃないし、だから、気分が乗った時に、適当に実行しようって
いうのが不言実行型ってもんだ。
結局、あんたは一体何がしたいんだ、と。
文句を言っているってことは、その仕事をやめたいのか。
やめたいのなら、やめれば良い。
でも、そうすると生活出来なくなるから、やめられないのなら、やめなければいい。
生活を出来るようにしたいのか、それとも、生活はともかくとして、やめたいのか。
どっちの要求も通せるほど、上手くいく物でもない。
というか、生活?
深く考えることもないんだよ。
一年間は365日。自分が多分生きるであろう年齢−現在の年齢で、日にちを割り出して、
物価の高騰だ、なんだとあっても、ある程度の予想は立てられるとして、最低限必要な
お金の量っていうのは、わかるはずだ。食費、光熱費、住居費、諸々で。
で、その総量を計算したら、後は、仕事が出来るであろう年数を割り出して、そのお金に
どれぐらい足りないのか、どれぐらいの給料だったら何年働けばいいのか、
そういうことを調べていけば、別に、それこそ嫌な仕事を続けなくても、生活することに関しては
そこまで深く思い詰めることもない。単に、人によって、40年とか50年働いて、ゆっくりゆっくりと
生活費を稼ぐ人もいれば、10年とかで一気に稼いで、その後は悠々自適に暮らす人もいる。
それもまた人それぞれの価値観もあるし、考え方もある。
というか、お金をたくさん稼ぎたい人は、どうして稼ぎたいのだろうか。
別に墓場にお金も財産も家族も何にも持って行けるものはない。
死ねば、人は一人。何も一緒に連れて行けない。
生き甲斐の追求、家族の追求、金銭の追求、名誉の追求、何もかも求めるから、
色々と思い悩む。
初めから、割り切ればいい。求めなければいい。最低限、これがあれば良いってものを
探せばいい。そうすれば、必要なものが明確に見えてきて、それがあれば生きていけるんだ、と
楽になれる。
でも、これが全てだとも思わないけれど。自分が正しいとは思ってもいない。
ただまあ、仮に後50年生きられるとしようか。そうすると、18260日ぐらいってことになる。
それを時間に直すと、438240時間ってことになる。それは、多いだろうか。少ないだろうか。
24時間起きている人がいるのなら、長いだろう。仮に睡眠時間が1時間だったら、18260時間
減ることになる。2時間だったら36520時間。まあ、基本的に6〜7時間睡眠の人が多いのかな。
そうすると、大体127820時間は、寝ていることになる。そうすると、起きているのは、残りの
およそ300000時間。で、8時間労働の仕事で、あまり残業もないとして、でも通勤時間とか
色々と考えると、10〜12時間ぐらいは仕事に費やされるだろうか。それで、計算すると、
182600〜219120時間は、仕事で消えているということになる。そうすると、自分の
自由に出来る、自由に考えて、苦悩できる時間は、正味100000時間ぐらいしかないわけだ。
多く見ても、4820日。年に直すと、約13年。
つまり、後50年だったら、自分の時間は13年。仕事の時間は25年。寝る時間は12年。
そんなもんだってことだ。それは多いのか、少ないのか。
小中高と学校に通う時間は12年。その時間が長かったのなら、長いのだろう。
でもあっという間に過ぎ去ってしまったのだったら、きっと、50年間の間で、悩んだり、イライラしたり、
楽しんだりすることだって、あっという間の出来事に過ぎないだろう。
時間なんて、無慈悲に流れていくんだからさ、何もしなくても流れていくし、
何かしても、流れていくもんだ。
別に人生、本当に一度きりってわけでもないだろうし、とりあえず今の生がうんざりだったら、
適当に過ごしてみたらどうだろうね。今がダメだったら、次は少なくとも、あれは悪い夢だったなあ、と
なれるんじゃないかねえ。逆に、今幸せだったら、きっと次は、ああ、良い夢だったなあ、でも、
現実はこんなにも辛すぎるって思うのだろうし。
まあ、何が言いたいかって?
くよくよ考えたって始まらないさ。適当にやってりゃ、そのうち別の場所に連れて行かれて、
また、適当にやったりするもんさ。どうせ、終わりのない夢の中にいるのだったら、
どうでもいいじゃん。生きるも死ぬも。死んだところで、どうせ、すぐに悪い夢を見たってことで、
終わりなんだから、わざわざ選ぶ必要もない。他人の死はあっても、自分の死はないんだよね。
この世界ってもんは。自分が死んでいる時間を自覚出来ないのだから。
生物は、心を持った瞬間に不死になってしまうんじゃないかって、思う昨今。
- 2008/04/23(水) 12:40:00|
- 今、この場で書きたいこと。
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原稿用紙で書くことがだるくなってから、もっぱらメモ帳にがりがりと書くことが多くなったこの頃。
自分が実際にどれぐらい書いていたのかと、ふっと気になって、持っている小説の1ページを
適当に抜粋して、打ち込んでみたところ、サイズとしては約1kbとなり、ディスク上では4kbと
なった。そして、同じ行で、コピー貼り付けを行って横に伸ばしてみると、2kbの4kbとなった。
つまり、ディスク上のサイズは、特に文字量として見る必要もないのだとわかった。
そこまでわかって、書きかけの小説で、何かそろそろまとめた方がいいんじゃないか、と
思ってきたもののサイズを調べてみた所、普通のサイズが569kbとなってしまった。
まだまだ書き足りないと思っていたのに、既に小説としては、600ページ近くの物に
なってしまっていたのだ。ちなみに、ここ最近書いているひぐらしネタの二次創作は、
まだ半分ぐらいという所で、344kbぐらいになってしまっている。
そう考えると、一日に思い付く量というのは、けっこう多いのか、と思うこともある。
一日パソコンに向かって、カタカタとキーボードを叩いて、創作していると、大体平均して、
100kbぐらいは書いていることが多い。半日とか、3,4時間であると、大体40kb前後が
多いところだ。ただ、問題としては、そんなに書いても、読む人がいるのかってことだ。
まあ、載せないのは、そういう理由によるところが大きい。それに、完成していない作品、
自分で納得の出来ないものを外に見せたくないというのも、ある。
したがって、なんだろうな。短編を書く技能でも見つけるとするか。
これからは。
でも、短編っていうと、どれぐらいだろうな。小説のページとしては、40〜50ページか?
そうすると、40〜50kbにまとめれば良いってことになるな。
先に骨子を作って、それから肉を付けるようにすれば、そういう短編も書けなくもないか。
まあ、そんなことを思ったわけだ。
今後、適当な物が書けそうだったらUPしようと考えている。
- 2008/04/22(火) 16:46:41|
- 今、この場で書きたいこと。
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