小説にしても、マンガにしても、音楽にしても、絵画にしても何の分野においても、
ネタって重要だったりするよなあ。
でも、そのネタって、人によって出し方があったりするんだろうなあ。
まあ、小説を書くときは、役になりきってというわけでもないが、
例えば、人物Aが話を始めるのだったら、まずは、そのAになりきってみることから、
始めている。こういう言葉を喋るときは、この人物だったら、こういう表情になって、こんな調子で
喋るのだろう、とか。それでそこを書き終わったら、次は、それを聞いている人を順々に書いていく
ために、その人一人一人になってみる。それで、何か返答をするのか、それとも黙って頷くのか、
むしろ、聞かずにそっぽを向いて、人物Aから突っ込まれるのか、そういうことをその場で、演じながら、
書くという感じになっている。したがって、ネタが思い付かない時は、本当に先に進まない。
正確には、小説の中にいる人物たちが、動いてくれないと、こちらとしては手の出しようが
なくなってしまうというのが、困ったことに現状である。つまり、話の持っていきかたで、
人物達が、こんな世界観じゃ動きたくないって感じになってしまうと、書いた部分を
動けるところまで消してやらないと、話が進まなくなることもあるから、色々と厄介だったりする。
っていうような感じで、ネタを出しているわけだが、みんなそんなもんなんだろうか。
つくづくイラストであるとか、マンガを描くことが出来ればと思うところではある。
頭に浮かんだ動画を絵にする力がないから、字で表現するしかないというのが、
何とも度し難い。よく絵を上達させるには、描くしかないと言う。それはもっともなご意見だと思う。
じゃあ、文章で表現するのが苦手な人も、当然だが、書けば上達すると言われるだろう。
でも、こう物書きをしていて思うこともあって、文章を書けない人というのは、いわゆるこちらの立場から
すれば、マンガを描けない人という見方も出来るわけで。そうすると、結局の所、どうやれば上達
出来るのか、というと、なかなか難しいところがあると思う。
結局のところ、こういう分野っていうのは、地道にコツコツというのもあるが、ある日突然、
一気に上達するってこともあるわけだ。何故か知らないが、突然開花するかのように。
つまるところ、そういうものは感性でやっているからだろう。
そうすると、絵を描ける人がお勧めする上達方法では、絵を描けない人全てに当てはまるとは
言えないのではないか。絵を描ける人が勧める上達方法というのは、大概が、元々絵の感性が
多少なりともあって、きっかけがあれば描けるようになるという感じの人に向いていると思う。
例えば、好きな人の作品をたくさん見て、その人のキャラを模写するところから始める、とか、
デッサン用の人形でも使って、様々なポーズを描いてみるとか、そういうことだろう。
それを書き物の世界に置き換えると、好きな作家の作品を読みあさる。それは、まあいいだろう。
でも、好きな作家の作品を書き写すっていうのは、あまりやらないのではないだろうか。
ただ、デッサン人形を用いて、様々なポーズを描くという部分に関しては、書き物の視点から
見ると、様々なシーンのワンカットを切り取って、文章を作ってみるというような作業に通じていると
思われるから、良い方法かもしれない。でも、それだけだと、個性的なキャラを描くという所には、
達することは出来ない。無数の断片があっても、それが一つの作品となるためには、主軸となる
キャラがいて、初めて生きてくるものだ。キャラだけでも、生きてくることはないが。
そうすると、書き物が得意な人間は、書き物をするような視点で絵を描けばいいのではないか、と
最近思ってきたところだ。様々なシーンのカットは、デッサン人形でのポーズ。好きな小説を読む
ことは、好きな漫画を読むことと同じようなこと。では、文章を書けている根本的な所は何だろうか。
文章を書くときに心がけていることは、とりあえず書くことだ。最初から完璧なものを求めていない。
骨組みでも良い。何かしら書いておけば、そこに肉を付けていって、形にしていけば、時間はかかるが、
それなりに見られる物になる。つまり、キャラのイラストなんかでも、そういうことか・・・?
先に骨組み、つまりは、それがどんなポーズなのかを棒人間でも、ブロック体をつなぎ合わせた
ものでもいいから書いてみて、それから、各パーツごとに、少しずつ人っぽくしていくようにして、
ダメだと思う部分、少し余計だと思う部分を少しずつ調整していって、完成させるということだろうか。
ただ、それが慣れてくると、最初からブロック体なんかを作らなくても、本番の線を引っ張ることが
出来るようになるとか、そういうことだろう。
書き物なんかで言う所の、推敲も下書きも一切無しで、最初から本番の感じで書いていっても、
少し修正するだけで、ほとんど完成に近い感じに仕上げられるみたいなもんだろう。
つまり、慣れないうちから、そういう領域で書こうとすると、どうしても書けないのだろう。
後、言えることだが、目的がないと、書けないものだ。その目的っていうのは、小説でもマンガでも
いいが、書く目的ということではない。
例えば、そうだなあ。とある国の興亡記でも書くとしよう。その時、登場人物も決まっていなければ、
どんな国なのか、何故、そういうことになったのか、そこの文明はいつ頃なのか、そういった部分、
何か先に行こうとするような目的が見えてこないと、書くことは出来ない。つまり、キャラの立ち絵を
描くにしても、そのキャラがどんな表情で何を見ようとしているのか、どんな目線で、どんな場所で、
どんな格好なのか、そういうことがわからないと、決めておかないと、何も描くことなど出来ない。
目的のない所では、棒人間にしかならない。書き物でも、何が書きたいのかわからなければ、
先に進むというか、何も書くことも出来ない。
自分自身で参考にするためにも、何となく書いてみた。というか、とりあえず何も思い付かず、
ちょっと先に進むのが遅くなってきてしまったというのが、今回、こんなことを書いている理由だろう。
ぶっちゃけ、書けるようになるのも突然で、書けなくなるのも突然だから、困ったものだ。
その理由も、何なのか把握も出来ないから、余計に質が悪い。自分自身がスランプに陥った
原因を正しく理解して、それを速やかに解決出来る人がいるのなら、それは実に素晴らしいことだ。
息抜きをすることか、寝ることか、それとも、書けなくても、机なりパソコンに向かい続けることか、
旅に出ることか、遠くを眺めることか、誰かと話すことか。とにかく、わからないものだ。
処方箋が、もしも存在するのなら、今のところ把握していることは一つしかない。
時が解決してくれる。何をして、じたばたともがいても、書けない時間は書けない。
何のきっかけかわからないが、突然書けるようになる。つまり、解決方法は時間。
それしか見つかっていない。
それとも、どうでも良いことを書こうかなあ・・・
ま、色々と考え中。
- 2008/04/25(金) 23:45:25|
- 今、この場で書きたいこと。
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やっぱり、何かと色々と、苦労があるようで、基本的には、愚痴愚痴愚痴・・・。
ま、それは仕方ない。いきなり、民間にされちゃって、いきなり、訳の分からない状態にされて、
ノルマだなんだ、営業だ、とかあれこれ言われて、そういうことを好まないから、そこを選んだにも
かかわらず、時代の流れで、そういうことになってしまって、やっぱり不平不満は募るばかり。
でも、結局のところ、自分自身もそうだけど、そうなることを予測出来なかったことと、
そうなった時のために、事前に資格を取るなり、何らかの努力をしてこなかったことが、
現在を作っているわけだ。だから、何というか、何かになりたいのなら、努力をするべきだ、と
いうのもわかっているわけで。
しかし、それで動けるかっていうと、動かないのもまた事実。
最近思うことだが、文句を言うだけで世の中は変わらない。取り巻く環境も変わらない。
お金が入ってくるわけでもない。生活が改善されるわけでもない。
だったら、自分から進んで、そういうマイナス要因となるようなものを口にしたって、仕方ない。
文句を言う暇があったら、口をつぐんで考えろ。
その方がよっぽど建設的だ。
だから、基本的に、何も喋ることは、ない。
不言実行というタイプともいえるだろうか。
何も言わず、実行するっていうのは、一見すると格好良いかもしれないが、
実際の所は、単に、話すのもだるいし、宣言してしまうと、やらないと色々と気分が悪くなるし、
何か枷があるっていうのは、好きじゃないし、だから、気分が乗った時に、適当に実行しようって
いうのが不言実行型ってもんだ。
結局、あんたは一体何がしたいんだ、と。
文句を言っているってことは、その仕事をやめたいのか。
やめたいのなら、やめれば良い。
でも、そうすると生活出来なくなるから、やめられないのなら、やめなければいい。
生活を出来るようにしたいのか、それとも、生活はともかくとして、やめたいのか。
どっちの要求も通せるほど、上手くいく物でもない。
というか、生活?
深く考えることもないんだよ。
一年間は365日。自分が多分生きるであろう年齢−現在の年齢で、日にちを割り出して、
物価の高騰だ、なんだとあっても、ある程度の予想は立てられるとして、最低限必要な
お金の量っていうのは、わかるはずだ。食費、光熱費、住居費、諸々で。
で、その総量を計算したら、後は、仕事が出来るであろう年数を割り出して、そのお金に
どれぐらい足りないのか、どれぐらいの給料だったら何年働けばいいのか、
そういうことを調べていけば、別に、それこそ嫌な仕事を続けなくても、生活することに関しては
そこまで深く思い詰めることもない。単に、人によって、40年とか50年働いて、ゆっくりゆっくりと
生活費を稼ぐ人もいれば、10年とかで一気に稼いで、その後は悠々自適に暮らす人もいる。
それもまた人それぞれの価値観もあるし、考え方もある。
というか、お金をたくさん稼ぎたい人は、どうして稼ぎたいのだろうか。
別に墓場にお金も財産も家族も何にも持って行けるものはない。
死ねば、人は一人。何も一緒に連れて行けない。
生き甲斐の追求、家族の追求、金銭の追求、名誉の追求、何もかも求めるから、
色々と思い悩む。
初めから、割り切ればいい。求めなければいい。最低限、これがあれば良いってものを
探せばいい。そうすれば、必要なものが明確に見えてきて、それがあれば生きていけるんだ、と
楽になれる。
でも、これが全てだとも思わないけれど。自分が正しいとは思ってもいない。
ただまあ、仮に後50年生きられるとしようか。そうすると、18260日ぐらいってことになる。
それを時間に直すと、438240時間ってことになる。それは、多いだろうか。少ないだろうか。
24時間起きている人がいるのなら、長いだろう。仮に睡眠時間が1時間だったら、18260時間
減ることになる。2時間だったら36520時間。まあ、基本的に6〜7時間睡眠の人が多いのかな。
そうすると、大体127820時間は、寝ていることになる。そうすると、起きているのは、残りの
およそ300000時間。で、8時間労働の仕事で、あまり残業もないとして、でも通勤時間とか
色々と考えると、10〜12時間ぐらいは仕事に費やされるだろうか。それで、計算すると、
182600〜219120時間は、仕事で消えているということになる。そうすると、自分の
自由に出来る、自由に考えて、苦悩できる時間は、正味100000時間ぐらいしかないわけだ。
多く見ても、4820日。年に直すと、約13年。
つまり、後50年だったら、自分の時間は13年。仕事の時間は25年。寝る時間は12年。
そんなもんだってことだ。それは多いのか、少ないのか。
小中高と学校に通う時間は12年。その時間が長かったのなら、長いのだろう。
でもあっという間に過ぎ去ってしまったのだったら、きっと、50年間の間で、悩んだり、イライラしたり、
楽しんだりすることだって、あっという間の出来事に過ぎないだろう。
時間なんて、無慈悲に流れていくんだからさ、何もしなくても流れていくし、
何かしても、流れていくもんだ。
別に人生、本当に一度きりってわけでもないだろうし、とりあえず今の生がうんざりだったら、
適当に過ごしてみたらどうだろうね。今がダメだったら、次は少なくとも、あれは悪い夢だったなあ、と
なれるんじゃないかねえ。逆に、今幸せだったら、きっと次は、ああ、良い夢だったなあ、でも、
現実はこんなにも辛すぎるって思うのだろうし。
まあ、何が言いたいかって?
くよくよ考えたって始まらないさ。適当にやってりゃ、そのうち別の場所に連れて行かれて、
また、適当にやったりするもんさ。どうせ、終わりのない夢の中にいるのだったら、
どうでもいいじゃん。生きるも死ぬも。死んだところで、どうせ、すぐに悪い夢を見たってことで、
終わりなんだから、わざわざ選ぶ必要もない。他人の死はあっても、自分の死はないんだよね。
この世界ってもんは。自分が死んでいる時間を自覚出来ないのだから。
生物は、心を持った瞬間に不死になってしまうんじゃないかって、思う昨今。
- 2008/04/23(水) 12:40:00|
- 今、この場で書きたいこと。
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原稿用紙で書くことがだるくなってから、もっぱらメモ帳にがりがりと書くことが多くなったこの頃。
自分が実際にどれぐらい書いていたのかと、ふっと気になって、持っている小説の1ページを
適当に抜粋して、打ち込んでみたところ、サイズとしては約1kbとなり、ディスク上では4kbと
なった。そして、同じ行で、コピー貼り付けを行って横に伸ばしてみると、2kbの4kbとなった。
つまり、ディスク上のサイズは、特に文字量として見る必要もないのだとわかった。
そこまでわかって、書きかけの小説で、何かそろそろまとめた方がいいんじゃないか、と
思ってきたもののサイズを調べてみた所、普通のサイズが569kbとなってしまった。
まだまだ書き足りないと思っていたのに、既に小説としては、600ページ近くの物に
なってしまっていたのだ。ちなみに、ここ最近書いているひぐらしネタの二次創作は、
まだ半分ぐらいという所で、344kbぐらいになってしまっている。
そう考えると、一日に思い付く量というのは、けっこう多いのか、と思うこともある。
一日パソコンに向かって、カタカタとキーボードを叩いて、創作していると、大体平均して、
100kbぐらいは書いていることが多い。半日とか、3,4時間であると、大体40kb前後が
多いところだ。ただ、問題としては、そんなに書いても、読む人がいるのかってことだ。
まあ、載せないのは、そういう理由によるところが大きい。それに、完成していない作品、
自分で納得の出来ないものを外に見せたくないというのも、ある。
したがって、なんだろうな。短編を書く技能でも見つけるとするか。
これからは。
でも、短編っていうと、どれぐらいだろうな。小説のページとしては、40〜50ページか?
そうすると、40〜50kbにまとめれば良いってことになるな。
先に骨子を作って、それから肉を付けるようにすれば、そういう短編も書けなくもないか。
まあ、そんなことを思ったわけだ。
今後、適当な物が書けそうだったらUPしようと考えている。
- 2008/04/22(火) 16:46:41|
- 今、この場で書きたいこと。
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三木清という人の人生論ノートという本をご存じだろうか。新潮文庫のものなのだが。
これが愛読書というか、座右の書とでもいうものだったりする。
何が好きかと言われれば、真っ先に、この本が頭に浮かんでくる。
いや、好きというものとは違うか。
共感が持てるというようなものだな。
で、その中で生と死についても取り扱っている部分がある。
内容は、読むのが早いから詳しくは書かないが、単純に言ってしまえば、
死は現実であり、生は想像である、ということだ。
その本に書かれている内容の一部を解釈するのなら。
なるほど、確かに、そう思うところがある。
死というのは、ただそこにあるもの。決して夢幻ではなく、存在しているもの。
だから、現実的なものということだ。
しかし、生というのは、曖昧なものだ。生、つまり生きているということが
何であるのかを、きちんと説明出来る人がいるのなら、説明してほしい。
いや、むしろ語り合いたいとも思えるところだ。
生きることは想像である、という仮定のもとで、ふと考えてみた。
この世界そのものが想像で出来ているとしたら?
まあ、ここで想像という言葉を使うと、想像によって、この世界、生きている舞台が整っている
はずがない、と言う人もいるはずだ。
何故なら、想像で出来ているのなら、どうして私はこんな生活を送っている、宝くじが当たらない、
上司には毎日小言を言われる、勉学が上手く行かない、恋人が出来ない、結婚が出来ない、
彼氏、彼女と上手く行かない、想像通りに生きることが出来ないのだから、想像が生であるはずが
ない、となるわけだ。
まあ、それはそれで一理あるし、そういう風にも考えられる。しかし、だ。
もしも、生きることが想像であるのなら、誰の願いも叶うことはないのではないのか。
無数の人達による想像で作られた産物であるのなら、誰しも、誰かの幸せだけを願うものでも
ないだろう。自分にとっての世界はこうあるべきだ、というものを人は大なり小なり持っているものだ。
で、それらが混ざり合って世界が構築されているとしたら?
自分の思うとおりに行かないのは必然だろう。
では、もしも世界が想像で出来ているのなら、どうすれば、自分の求めている所に近付けるか、
それは、理屈としては単純なことだ。ただ、それを実行出来るかどうかは別として。
世界が望む形に、自身がなればいい。そうなれば、世界はそれに見合った形で答えてくれる。
例として、自分が時々買う物で考えてみる。それは毎週ロト6なるものを買っている。
しかし、それは当たった試しがない。でも、毎回誰かは当選していたりする。
自分が当たらず、他の誰かが当たっている。それは何故か。一言で運命として片付けるなら
それでも構わないが、そうではなく、当選する人は、当選するべく世界に選ばれているとしたら。
世界が宝くじが当たるにふさわしいと思える人間が当てている。
それは、別に聖人である必要も大物である必要もない。何の能力もない一般人でも
何の問題もない。世界が想像であるなら、無数の人が想像して成り立っているのなら、
その無数の人達が思う、宝くじを当てている人のイメージに近くなれば良いだけのことだ。
こういう人が当たっているのだろう、ああいう人が当たっているのだろう、そういうことを
時々は考えることもあるはずだ。その時、その世情に合った人が当てている。
そんな所だろう。そのたとえがわからなければ、これはどうだろうか。
野球の世界にイチローがいる。彼は常に一定の成績を叩き出す。まあ、元々野球のことは、
ニュースで時々耳にする程度で、あまり詳しくないのだが。
人々の評価というものが、ある程度似ている。そして、その評価に見合うような感じで、
彼も出来ている。それは、何故なのか。それは、彼が努力したからだ、ということもある。
では、努力をすれば誰でもイチローになれたのか?
そうではないだろう。イチローがイチローでいられる理由は、自身の想像もあることだろうが、
周りからの想像も影響を及ぼしているものだ。
ああ、ちなみにここで断定的に言ったのは、あくまでも想像が生を作っているという仮定の
話をしているためだ。
だから、もしもイチローになりたいのなら、イチローと同じように過ごさなくてはいけない。
それこそ、生活パターンから、家族構成に至るまで何もかもをコピーすればいい。
そうすれば、出来るかもしれない。ただ、それではイチローの生まれ変わり、コピー、
まがいひん、個性というものが無くなってしまうだろうが。
ならば、イチローみたいになりたい、と思うのだったら、それに近いことをすれば良い。
そうすれば、イチローみたいになれるだろう。ただ、それを実行するためには、
イチローについて、徹底的に調査する必要が出てくる。何故なら、〜〜のように、と
考えた段階で、それを模倣するということに他ならないからだ。
自分だけの価値観、考え方だけで、模倣しようとしても無理がある。
というか、それは単に模倣したふりである。
結論は、特にない。
こういう問題は、各人で色々と考えてまとめていくことだろう。
結論ってわけじゃないが、少なくとも、自分が宝くじに当たることはないだろう。
何故なら、宝くじを当てている人のイメージとかけ離れているからだ。世界が、それが
そういうもんなのだ、って言っても、それを真似してまでは、当てたいと思わない。
だから、当たらない。そういうもんなのだ。それでも、買い続けるのは何故か。
当たらないとわかっているのに。
それは単純に言って、こんな人間であっても、もしかしたら、世情が揺れ動いた時に、
そういう人間が当たるもんだと、多くの人が思ってくれたら、当たるんじゃないかな、と
思う故にだ・・・。
でも、生が想像だと考えた方が楽なんじゃないか?
想像されている方向を読み切れば、どうとでもなるだろ。
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- 2008/04/17(木) 16:14:17|
- 今、この場で書きたいこと。
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